2020年3月21日土曜日

3月22日 主日礼拝のご案内(受難節第4主日・レント4)

10:35~11:40

*10:15~10:30 子どもの礼拝

招詞:知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

   (コロサイの信徒への手紙2章3節)

エレミヤ書 17章14~18節

 主よ、あなたがいやしてくださるなら
   わたしはいやされます。
 あなたが救ってくださるなら
   わたしは救われます。
 あなたをこそ、わたしはたたえます。
 御覧ください。彼らはわたしに言います。
 「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。
 それを実現させるがよい」と。
 わたしは、災いが速やかに来るよう
    あなたに求めたことはありません。
 痛手の日を望んたこともありません。
 あなたはよくご存じです。
 わたしの唇から出たことは
 あなたの御前にあります。
 わたしを滅ぼすものとならないでください。
 災いの日に、あなたこそわが避け所です。
 わたしを迫害する者が辱めを受け
 わたしは辱めを受けないようにしてください。
 彼らを恐れさせ
 わたしを恐れさせないでください。
 災いの日を彼らに臨ませ
 彼らをどこまでも打ち砕いてください。
 

ヨハネによる福音書8章1~17節

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗になった。
 そして、「シロアムー『遣わされた者』という意味ーの池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言うものもいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

讃美歌:子どもさんびか34番ー2

    讃美歌21-297番、503番、448番

説教題:まさに、それは私です。

説教:島津牧師


2020年3月11日水曜日

3月15日 主日礼拝のご案内(受難節第3主日・レント3)

10:25~11:30

招詞:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。(ペトロの手紙1 2章3~4節)

レビ記26章3~5節

 あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時季に応じて雨を与える。それによって大地は作物をみのらせ、野の木は実をみのらせる。穀物の収穫にはぶどうの収穫が続き、ぶどうの収穫には種蒔きが続いて、あななたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。

ヨハネによる福音書6章47~58節

はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
 わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

讃美歌:子どもさんびか34-1番

    讃美歌21-21番、432番、56番

説教題:わたしたちを生かすパン

説教:島津牧師

2020年3月5日木曜日

3月8日 主日礼拝のご案内(受難節第2主日・レント2)

10:35~11:40

*子どもの礼拝10:15~10:30

招詞 :しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙4章8節)

エレミヤ書5章20-25節

 これをヤコブの家に告げ、ユダに知らせよ。
 「愚かで、心ない民よ、これを聞け。
 目があっても、見えず
 耳があっても、聞こえない民。
 わたしを畏れ敬いもせず
 わたしの前におののきもしないのかと
 主は言われる。
 わたしは砂浜を海の境とした。
 これは永遠の定め
   それを越えることはできない。
 波が荒れ狂っても、それを侵しえず
 とどろいても、それを越えることはできない。
 しかし、この民の心はかたくなで、わたしに背く。
 彼らは背き続ける。
 彼らは、心に思うこともしない。
 『我々の主なる神を畏れ敬おう
 雨を与える方、時に応じて  
   秋の雨、春の雨を与え
 刈り入れのために
   定められた週の祭りを守られる方を』と。
 お前たちの罪がこれらを退け
 お前たちの咎が恵みの雨をとどめたのだ。」

ヨハネによる福音書3章16~21節

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行うものは光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

讃美歌:子どもさんびか34-5番

    讃美歌21-291番、511番、523番

説教題:闇でなく光にとどまれ

説教:島津牧師